A Story of The Near Future
あやしい小説

ACT3

ランチを終え仕事場に戻った。 自転車をほんのちょっとこいだだけで汗だくになった。 部屋の温度計は35度を軽く超えていた。 ラジオをつけるとちょうどお昼のニュースをやっていた。 巷では日射病や熱射病でばたばた人が倒れているらしい。 納得。冷蔵庫を開けて麦茶を取り出す。 なんてったって暑い夏に運動した後の飲み物は冷たい麦茶が一番。 ビールは夜までガマンなのだ。 汗がひいてきたところで仕事に戻る。 気だるい午後3時頃、電話が鳴った。原稿の催促に違いない。
「ふわい。」とぼく。
「貴様の女房を預かった。女房の命が惜しければおとなしく金を出せ」
担当編集者の声だ。たばこ吸いすぎのガラガラ声ですぐわかる。
「あのなあ。声でわかってんの。」
「女房の命が惜しければ、おとなしく原稿を出せ。」
「いつまでやってんだよ。もうあらかたできてるよ。あともうちょっとしたらFAXで送る。」
「サツにたれ込みやがったら、ただじゃおかないからな。女房の命はないと思え。」
「はいはい。わたしは納期を守る翻訳家ですよ。ご心配なく。」
「むははははは。(ガチャ)」
ちっ!のんきな奴め。 今度会ったら関節ワザの餌食だ。 俺の担当編集者はこの暑さで頭がおかしくなってしまったに違いない。 あっ!畜生!!せっかく集中していたのに、どこまでチェックしたかわかんなくなってしまったではないか。 おのれ、変態編集者め!この償いはキチンとさせてやるのだ。 外から子供たちのはしゃいでいる声が聞こえる。 いいねえ君たちは夏休みで。ワシはまだお仕事なのよん。 少し風が出てきたようだ。窓の外にかけておいた風鈴が鳴り出した。 涼しい音色。いいですわねえ金鳥の夏。このセリフは美空ひばりだったっけ? ラジオから午後5時の時報が聞こえてきた。 ちょうどそのとき、仕事がようやっと終わった。 うーむ、予定より早く仕上がったようだ。 大きな仕事をやり終えた達成感でぐったりとなった。 心地よい疲労感。やった!ついにやったのだ! 1冊の長編小説を翻訳し終えた快感は、ちょっと言葉では表現できない。 サラリーマンを辞めた最大の理由はこの「達成感」のなさだったのだ。 だらだらと永遠に続く「終わり」のない仕事に嫌気がさしたのだ。 自分がやり遂げた仕事が形となってあらわれる方がやりがいがあるような気がする。 会社の仕事はやってあたりまえ。決して誉められることはない。ミスすれば怒られる。 仕事の結果は月末に集計される金額のみ。 コンピュータの端末に現れる無表情な数字がすべて。 そんな無味乾燥な世界とおさらばしたかったのだ。 一冊分の翻訳を終えた今、つくづくこの仕事に変えて良かったと実感できた。 貴重な瞬間かもしれなかった。 おーし、お祝いに今夜は旨い料理とワインを用意するぞ。 うちに帰れば主夫の仕事が待っている。 帰りがけに今夜のディナーの材料を買いに行くぞい。 外はまだ明るい。 仕事場から出ると、まだかなり蒸し暑かった。 クーラーが効いた部屋にずうっと籠もっていたからなおさら熱く感じる。 近くの家から夕餉の香りが漂ってきた。 どうやらお隣の晩御飯はカレーらしい。 一台のトラックが僕の前を通り過ぎた。 トラックのラジオからは巨人戦の実況が聞こえてきた。 自転車にまたがり夕飯の買い物をすべくスーパーを目指すことにした。
(ACT4へつづく)