うちへ帰る前にとりあえず、くみに電話することにした。
「何よう?」
くみはかなり不機嫌な声。忙しい時間帯に電話したのはまずかったかな。
ぼくはナギサとの顛末を話した。
「よくわかんないけどお。ナギサがそんな風になったのを一度も見たことないわ。」
「でも、顔が真っ青だったよ。とても演技にはみえなかったけど。」
「からかわれたんじゃないの?彼女あなたのこと好きだったのよ。え?今日ナギサに初めて言われて気がついたの?相変わらず鈍感ねえ。」
機嫌の悪いくみはずけずけと言いはなった。
「考えてごらんなさいよ。お客の手に触れるたびにいちいちビリビリ感電してたら、レジなんか仕事になんないでしょ。」
「鋭い!それもそうだ。」
「ごめんなさい。今とにかく忙しいの。あなたもわかってるでしょ。今、メチャ混みなの。帰ってからゆっくり話をきくから。じゃあね!」
くみは一方的に電話を切った。
確かに夕方のスーパーは夕飯の買い物客でいつもごった返す。
レジは戦争のような忙しさになる。タイミングが悪かった。
でも心配だったので伝えずにはいられなかった。
ナギサのあの取り乱しようは演技だったのだろうか?
だとしたらアカデミー賞ものだ。
考えれば考えるほど訳がわからなくなってきた。
店を出ると、あたりはやや薄暗くなってきた。
野を越え山を越え自転車で帰り道を急いだ。
横浜はやたらと坂道が多い。
店を出て約30分後にうちに着いた。
警戒しつつそうっと玄関を開ける。異常なし。
次にすべての部屋を注意深く点検する。
特に変わった様子はないようだ。
買い物してきた食材を取り出しながら、ナギサの苦しそうな表情を思い出す。
まだ生々しく覚えている電気ショック。
静電気かなとも思ったけど、全身が痺れることはありえない。
外は次第に暗くなってくる。
まだ一抹の不安を拭いきれなかった。
くよくよしていてもしかたがないので晩御飯を作ることにした。
テレビのスイッチを入れプロ野球の巨人戦をやっているチャンネルにあわせる。
今夜は巨人対阪神の伝統の一戦。
イニングはまだ浅かったが5対0で巨人が勝っていた。
いいぞいいぞ!ぼくは巨人ファンなのだ。
誰から何と言われようとワシは小さい頃から巨人ファンなのだ。
ON砲が現役の時、しかも後楽園球場(ドームじゃないよ)が天然の芝のときにナマの試合を見ているのだ。
自分の歳がばれてしまうが仕方がない。
デザートの紅茶パンナコッタは今日初めて作る。
テキストを見ながらの作成となった。
くみは甘いものに目がない。
試行錯誤のすえ、うまくいきそうなメドがたってくると、彼女の喜ぶ顔が目に浮かんできた。
料理に集中していると徐々に不安を忘れていった。
くみを迎えに行こうとも考えていたのだが、
料理を作りながら飲んでいたビールが回ってきて、どうでも良くなってしまった(おいおい)。
野球は結局、巨人が圧勝した。
自分のことのように嬉しくなり気分がいい。
くみが帰ってきそうな時間を見計らって料理を温めなおす。
時計は9時半ちょっと前を指していた。
寄り道してこなければ、もうすぐ帰ってくる時間だ。
「ただいまあ」
どうやら無事帰ってきたようだ。
「わーお!凄いご馳走ね!!どうしたの?今日はなんか特別な日だったっけ?」
くみの目はまん丸だ。
「ふっふっふっふ。ついに終わったのだよ。」
「まあ!例の小説終わったのね。おめでとう!」
くみは両手を広げてこっちに向かってきた。
ボクはがっちり彼女の体を受け止め彼女の唇をむさぼった。
やわらかい。ワインのように甘い。
「お風呂にする?ご飯にする?」
普通の家庭では奥さんが口にするこのセリフは、うちの場合主夫であるぼくの専売特許。
いいやらわるいやら。
「お風呂にする。今日は汗だくよ。」
「じゃあ、その間にご飯の最後の仕上げをしておくからね。」
もう一度軽くキスして彼女の体を離す。
「あっ。そうそう今日いいもの買ってきたの。今朝こぶを作ったお詫びに」
「なになに?」
「はい!」
くみはごそごそとハンドバッグから1まいの封筒を取り出し、ぼくに渡した。
わくわくしながら封筒を開ける。
「うわー!これは凄すぎる!!」
「あなたずうっと欲しがってたでしょ。」
なんとウイーンフィル来日コンサートのチケットだった。
1枚数万円はする。高額にもかかわらず、人気が高くて発売後はすぐに売り切れてしまう。
いたって入手困難な代物なのだ。
「どうやって手に入れたの?お金はどうしたの?」
「ヒ・ミ・ツ。一緒に見に行きましょうねぇ。」
おお!なんだ。今日はいいことばっかりじゃないか!
「ありがとー!」
もう一度彼女をぎゅーっと抱きしめようとしたが、するりとかわされてしまった。
「さあ、おふろおふろ。」
と歌うように言いながら、すたすたと風呂場へ行ってしまった。
すべてが順調に進み、なにごともぼくたちに追い風であるように思えてきた。
悪いことなんか起こるはずがない。
ナギサの予言ははずれたか、あるいはまるっきりウソだったに違いない。
料理はどれもいい出来だった。ワインとの相性も申し分なかった。
食事中もナギサの話題は一言たりとも出なかった。
ぼくは幸せな気分を壊したくなかったし、くみの方はすっかり忘れているらしかった。
「みんな美味しいかったわ。」
「アリガト」
彼女にそういわれるとほんとに嬉しい。心からそう思う。
「あなたと結婚して良かった。つくづくそう思う。あなたの料理を食べてるととても幸せな気分になるの。ほんとプロ並みね。」
最高の賛辞をもらってかなり照れる。
「ぼくも君の喜んでいる顔を見ていると幸せな気分になるよ。」
うわっ!歯の浮くようなセリフ。言いながら恥ずかしくなってしまった。
「デザートも最高。ねえ、どこで覚えたの?」
「今日のデザートはテキスト見ながら。料理は自己流でした。」
「英語も自分で覚えたって言うし、何でも自分でやってしまうのね。」
「仕事の方はいろんな人の協力があって、はじめてできるんだよ。今回はそれが身に滲みたよ。」
「メチャクチャ強いコックの映画あったわね。確かスティーブン・セガールの。」
「あったあった。コックというのは仮の姿で、ホントウは海軍の特殊部隊の人だったっていうやつ。何だっけ?」
「たしか沈黙のナントカよ。」
「沈黙の艦隊だっけ?」
「そうそうそう。ビンゴよビンゴ!ところで今夜のあなたは沈黙?」
「まさか!」
ぼくはくみを強引に抱え上げ、ベッドまで運んだ。
食器の後かたずけもそっちのけで僕たちは愛し合った。
二人とも泥沼のように眠ってしまった。
夜中にハッと目が覚めた。
外で何か変な音がしているようだ。どうもそれが目覚めの原因らしい。
「ねえ、外で変な音がするわ。起きてえ。」
眠そうなくみの声。
「起きてるよ。ボクも聞こえた。」
飲み過ぎで頭がガンガンする。
「誰かドアをノックしているみたい。」
「ん?ホントだ。いったい今何時?」
「ちょっと待って。やだあ、もう2時ちょっと過ぎよ。」
「誰だろう?こんな夜中に。ちょっと俺が見てくるよ。」
「待って。ワタシも行く。」
「強盗かもしれないから、そこにいなよ。万が一ってことがあるから何か服を着た方がいい。」
「わかった……。でも一人で待っているのは不安だわ。何か着たらわたしも行く。」
ぼくも適当に服を探して着た。ノックは断続的に続いている。
ぼくは玄関にゆっくりと近づいて行った。
玄関に隠してある防犯用の竹刀が目に入った。
中学のとき体育の授業で剣道をやったとき、買わされたものだ。
竹刀を手にとり、もう片方の手を玄関のドアノブに伸ばす。
手が玄関のドアノブに近づくにつれて、恐怖が高まり心臓がバクバク鳴りだす。
玄関の向こうから女の人がすすり泣く声も聞こえてきた。
いよいよヤバイぞ。
心臓が爆発しそうだ。
おそるおそる、震える手で鍵をはずし、ゆっくりとドアをほんの少し開ける。
5センチほど開けてその透き間から覗き込むと、目の前に黒い陰がうずくまっていた。
暗くて人相がよくわからない。
「うわわわーん!」
黒い陰が泣きながら立ち上がり、ボクに向かってきた。
竹刀を振りかざそうとしたが間に合わなかった。
黒い陰はボクに抱きついてきた。
あれ?どっかで聞いたことのある声だなあ。
くみが中で玄関の電気をつけたようで、ぱっと明るくなった。
抱きついてきた物体を引き剥がして、その顔を覗いた。
死ぬほどびっくりした。
黒い物体の正体は、元会社の同僚だった。
「あれえ?ジュンコさん?こんな夜中にどうしたの」
「ええ?ジュンコさん?」
くみもこちらにやってきた。
長時間泣いていたらしくジュンコさんの顔は完全に変形していた。
ちょっと怖かった。
「うううう、じゅんくん(ボクの名前)、くみちゃん。ひっく。ひっく。」
よほどのことがあったに違いない。
ぼくたちは慌てて彼女をうちの中へ入れた。
椅子に座らせて落ち着くまで待った。くみにブランデーを持ってくるよう頼んだ。
「よしよし。落ち着いて話してごらん。」
とボク。くみも心配そうな表情。
ジュンコさんはブランデーを一口すすると、堰を切ったかのように叫んだ。
「旦那が殺されちゃったのお!!」
「ええ?ヒロアキさんがあ??」
がーん!ナギサの予言は当たった……。
(つづく……でもつづかないかも)
|